桜田門外の変(安政七年)
桜田門外の変 茨城県立図書館
安政七年(一八六〇)三月三日,水戸浪士が大老井伊直弼を襲撃した事件の図である。
将軍継嗣問題や通商条約の違勅調印などをめぐって大老井伊の政治に強く反対した徳川斉昭・慶篤らを井伊は処罰したが,
これに憤激した高橋多一郎・金子孫二郎ら水戸藩尊攘派の間には井伊排撃の動きが起こった。
一方,幕府改革を求める孝明天皇の勅書「戊午の蜜勅」が水戸藩に下ったが,その勅書が他藩に伝達されることを恐れた幕府は,
井伊を中心にその返納を求めて反対派に激しい弾圧を加え,安政五年(一八五八)に安政の大獄を引き起こした。
最も弾圧の激しかった水戸藩では,勅書返納反対を主張する高橋・金子らと薩摩藩有志との間に井伊を排撃する斬奸義挙の
計画が進み盟約が成立した。その間にも幕府の反対派追求は厳しく,関鉄之助を総指揮者とする水戸脱藩者稲田重蔵・鯉淵要人・
蓮田市五郎ら十七名と薩摩藩の有村次左右衛門は,雪の桜田門外に,井伊の行列を襲った。
蓮田の組は斎藤監物を頭とし,井伊の駕籠を襲った。自らも傷を負いながら老中脇坂侯の邸に赴き,趣意書を提出した。
その後,細川越中之守邸他に移され,文久元年(一八六一)七月二十六日に処刑された。細川邸に預けられていたとき,
家臣に求められ,桜田門乱闘の有様を詳細に画いた。
この古文書について
本文中に封廻状と書かれているので封印されて廻されたものである。
三月三日夕刻には封廻状により警護を固めるようにとの示達がされたこと、
細川邸に預けられた者から事件の趣意書が大目付と目付に提出したこと(蓮田の名前がある)、
但馬守辻番の者から松平修理太夫の家来と名乗る者(有村次左右衛門)が(直弼の)首を持ってきたこと、
その首を井伊家の家来が引取りにきたこと、などが書かれている。
原文
解読文
松平肥後守
酒井左衛門尉
松平越中守
大久保準之助
今朝掃部頭登 城懸水戸殿家来共
及乱妨候ニ付而ハ此上水戸表ゟ若多人数
致出府候義も可有之時急寄早々
人数差出候様兼而手筈可被申付置候
三月三日夕
封廻状 水戸殿家来
大関和七郎
申二十五才
森 五六郎
一ト通尋之上 二十一
細川越中守家来 杉山弥一郎
預ケ差返ス 三十八
森山繁之助
三十六
【解説】
幕府が前記四人宛に出した指示書である。
松平肥後守
酒井左衛門尉
松平越中守
大久保準之助
今朝、掃部頭(かもんのかみ=井伊直弼)の登城途中で水戸殿の家来共が乱暴に及んだことに付いては、
このうえ水戸表よりもしや多人数が出府致すことも有り得るので、時を急ぎ早々に人数を差出すようかねての手筈を申しつける
三月三日夕
原文
解読文
三月 上杉弾正大弼家来
龍之口但馬守頭取組合辻番廻り場内ニ今五半時
過侍体之者咽を突致自害候者首を持罷在
候ニ而辻番人届申候間早速遣役之者為見届候処
相違無之候主人名前承候処松平修理太夫家来
之由申候得共言舌確と相分不申候依之手当
仕度候此段不取敢御届申上候
遠藤但馬守家来
三月三日 木下七左衛門
右御届ニ付御目付ゟ見分罷越候処井伊
掃部頭殿家来多人数右場所江罷越右首
其者共江渡候様申立居候ニ付御差図伺ニ相成
申候処首者引渡可申旨御差図相済候事
細川越中守殿江罷越候四人之者申達候趣
掃部頭殿御事ハ天下之御為ニ成不申
打果シ御印を頂戴ハたし候依而拙者共
【解説】
遠藤但馬守(近江三上藩主・遠藤胤統)屋敷の辻番人(組合とあるので複数の屋敷を見守る)が上杉弾正大弼(家来)に届けた内容である。
三月 上杉弾正大弼家来
龍之口(江戸城の入口)の但馬守頭取組合辻番廻り場内に今五つ半時過に侍ふうの者で咽を突き自害しようとした者が首を持っていました。それについて辻番人が届けにきましたので、早速遣い役の者が見届けましたところ、それに相違ありませんでした。主人の名前を承った処、松平修理太夫の家来であると申しましたが、言舌が確かでなくよく分りません。依って手当いたしますので、此段とりあえず御届申上げます。
この人物は有村次左衛門で薩摩藩士である。「言舌確と相分からず」とあるのは自害しようとして意識が混濁しているとも思えるが有村の薩摩弁のためであったようある。松平修理太夫は薩摩の重臣でその家来というのは正しい。直弼の首級を挙げたがここに書かれているように深傷のため自刃している。有村次左衛門は薩摩藩ただ一人の浪士である。江戸にて水戸浪士と知合い同志となったと言われる。
原文
解読文
御法之通ニ御仕置被下候様申達候由
右之趣細川越中守家来吉田平之助為
御届御城江罷出大目付久貝因幡守御目付
駒井山城守江御届申候よし
細川越中守江
佐野竹之助
大関和七郎
森 五六郎
関 天之助
杉山弥一郎
黒沢忠三郎
蓮田市五郎
斉藤 監物
右御吟味中其方江預被 仰付候間
手当向其外委細之儀池田播磨守
可被承合候
【解説】
(前項の最後から)細川越中守殿のところへ来ました四人の者が申しますには、掃部頭殿の御事は天下の御為には成らないので打果たし御印を頂戴いたしました。よって拙者共は御法の通りに御仕置くだされますようにと申しています。
右の趣旨を細川越中守家来の吉田平之助が御届けのため御城へあがり、大目付久貝因幡守、御目付駒井山城守へ御届けしましたとのこと。
細川越中守へ
佐野竹之助
大関和七郎
森 五六郎
関 天之助
杉山弥一郎
黒沢忠三郎
蓮田市五郎
斉藤 監物
右の者は御吟味のあいだ、その方へ預けると仰せ付けられましたので、手当向やその外委細のことは池田播磨守が承ることになりました。
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