中野古文書同好会について
中野古文書同好会は主に江戸時代の古文書を学習しています。
毎月3回次のような日程・内容・会場で学習します。
・第3土曜日10:00~12:00 専門の講師を招き、古文書テキストの輪読と講師による解説の講義を受けます。『大岡政要実録』を終えて現在は新井白石の『折たく柴の記』の講義を始めています。
・第1・最終日曜日10:00~12:00 会員相互の自習会を行います。次回講義の予習と会員有志が交代で講師となって古文書の解説を行います。
・会場は中野区の新井(主)・桃園・産業振興の各区民センターです。
・会費は月額1500円です。
生涯学習は人生を豊かにしてくれます。いつでも入会できますので是非お問合せください。初心者歓迎します。
誰でも最初は初心者です。成績評価はありませんので自己申告により次のようなステップで進みます。
初級 聴講のみ。古文書とは何か、どう読むのかを習います。
中級 輪読に参加する。予習をして自分で読んでみます。
応用 自習会の講師になる。自分の興味ある資料を調べて説明してみます。
中野古文書同好会のホームページを開設しましたので詳しくはこちらを閲覧ください。
中野古文書同好会のホームページ
自習会資料
中野古文書同好会では会員有志が交代で講師となって古文書の解説を行います。私が担当したときの資料です。
平成30年3月資料
「被 仰出書」 徳川六代将軍家宣の遺言と評定所三奉行への訓戒
家宣は宝永六年から病死する正徳二年までわずか四年の任期であったが、新井白石の影響もあって「正徳の治」と呼ばれる非常にまじめな政治の行われた時代である。
表題「被 仰出書(おおせいださるしょ)」は元来、指図書の意味で、のちには朝廷、幕府から下部組織に下される通達文書をいうが、単なる通達・通知ではなく、命令の意味も含む公文書である。
資料1
原文(PDF)
資料2
解読文と解説(PDF)
平成30年10月資料
天保の飢饉は甲州でも例外ではなく特に山間部である郡内地方は酷かった。それによって天保七年郡内騒動と呼ばれる一揆がおこり、やがて国中の三郡へ広がった。それを煽動したのが無宿者と呼ばれる者たちであった。
恐らく農民たちも手をやいていたのであろう。この古文書は関東取締出役がこの無宿者を取締るために農民たちへ出した申し渡し文である。
資料1
取締方請印小前帳(天保八年 甲斐)
資料2
読下し文と説明(PDF)
令和元年5月資料
「被 仰出書」 徳川六代将軍家宣の遺言(其の二)『正徳金銀改鋳』
資料
原文と解読文(PDF)
古文書で知る江戸時代の教育について
江戸時代は外国に比べ識字率が高かったことが知られている。これは文書による支配が根底にあり、必要に迫られて文字を覚えたことと、知識を得たことによってさらに自主的に学習を志す風潮が芽生えてきて、民間にも寺子屋ができ、子供から教育する環境が作られたことによるものである。
天下太平なれば
三浦浄心の慶長見聞集巻の四『童子あまねく手習うこと』には
聞しは昔、鎌倉の公方持氏公御他界より東国乱、廿四五年以前迄、諸国におゐて弓矢をとり
治世ならず、是によって其時代の人達は、手ならふ事やすからず、故に物書人はまれにありて、
かかぬ人多かりしに、今は国治り天下太平なれば、高きもいやしきも皆物を書たまへり
とのように慶長時代にはすでに寺子屋があり、筆道が盛んであったことが分かる。
武家諸法度による文治政策
台徳院様御代、慶長二十年卯七月、御条目十三ヶ条被 仰出、或云、於伏見城本田正信是を伝ふと云
一文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事
文治政策の始めである。ここから武家の社会にも文、すなわち学問、教養が重んぜられるようになった。
将軍徳川吉宗の教諭支配
吉宗は享保六年、清の聖祖康照帝の「父母に孝順し、長上に恭敬し、郷里を和睦し、子孫を教訓し、各々生理に安んじ、非為を作すなかれ」の六つの教諭を解説した『六諭衍義』を荻生但来に訓読をつけさせ、同七年、室鳩巣(直清)に和訳・要約させて、『六諭衍義大意』と名づけて出版し、寺子屋での童蒙の手本にさせた。
泰平年表(天保十二年刊 大野広城著)より
享保七年六月廿二日
市中手跡指南の者へ六諭衍義を給はり、童蒙の手本に可書与旨令せらる。
同十月八日
戸田辺御成、島根村(南足立郡)医師順庵御代々御法度書を以て童蒙の手本とし習はせける由被聞召、賞銀十枚・六諭衍義大意一帙賜ふ
ここの『六諭衍義大意』は国(幕府)が定めた最初の教科書といえる。
教材になった五人組帳
前述のように『武家諸法度』とともに『五人組帳』が手習いの教材として使用された。
五人組帳は領主が作成した農民に対する法令である。これに対し農民は遵守する約束の請書という
形で署名、請印を押して領主に提出した。
名主はこれを定期的に読み聞かせることで農民を教諭する教書でもある。
農民にとって極く身近な存在であっただけに子供の教材としても使用された。
関東取締出役の教諭支配
また天保十二年、関東取締出役の小川半蔵が触れた廻状には
小川半蔵様御廻状之写
其組合寄場宿村江別紙孝行和讃壱冊宛差出し候条、
大小惣代寄場役人中より組合村江廻状之節、
右和讃相廻し村々ニおいてハ手習師匠、其外子供江、
孝道弁へさせ度物江為写取候様取計、(以下省略)
『孝行和讃』は増上寺役僧の宣契(せんかい)上人(文化十二年没)の作とされている。この書の末尾に「此和讃を手習する子供におほへさせ教行のおもむきをしらせまほし御世の嘲をかへりミすハ俗語をもつて書つらねはへる」と書かれている。これも版本として出版されているのである。
古書市には今も名残を見つける
このような幕府による教諭支配は寺子屋教育にも影響を与え、江戸市民の教育水準の向上に貢献するのである。
これらは写本として普及しており古書市で今でもよく見かけるものである。また寺子屋で使われた往来物といわれる教科書は大量に出回り、いま現在も安価に手にいれることができるので、古文書を学習しようと思うひとは、これらから入門するのもひとつの方法である。
中野区の近世(調査中)
武蔵國之内地名尋書
代官・伊那友之助が支配所の地名について調べた『武蔵國之内地名尋書』に
一中野
是は内藤新宿より前に記、田無村への往来、
内藤宿より壱里程隔り、江戸町続の在町にて、多摩郡の内、中野村あり、
小田原北条家の書物なとを見るに、多東郡中野の郷としるし、最寄一円の郷名なるよし、
其外申伝へ知れ難し
文政の改革における組合村
文政十年、文政の改革において四十一箇村を組合村としてひとつの改革村に統合された。そのうちの十二箇村、中野、本郷、本郷新田、雑色、新井、上高田、片山、江古田、上沼袋、下沼袋、上鷺宮、下鷺宮が現在の中野区である。
これは関東八州において行われ、幕府領、私領、寺社領の区別なく支配したのが関東取締出役である。主に無宿者の取締りを目的とした。
このとき出されたのが前後四十五条に及ぶ『御取締方御趣意書』である。これはそれぞれの組合村全てに出されたものでほぼ同一文である。各村毎かなりな数作成されたものと見えて、
どこの資料館にもあるポピュラーな古文書である。
江古田村山崎家文書
山崎家は文政期より明治初期まで江古田村で名主を代々務めた。
寛延三年に初代喜兵衛が、本家徳兵衛から手元金七十両と田畑八反歩を分与されて
独立し、代々喜兵衛を名乗っている。農業のかたわら質屋を開業し、
安永五年には醤油醸造を始めた。これらの成功で豪農としての地位を確立した。
現在山崎家の跡地は中野区立歴史民俗資料館となっている。
Copyright © 2018 Masaki Tanaka, All rights reserved.