日本橋高札 新田開発(享保七年)
江戸町奉行が新田開発 『吉宗の時代と埼玉』(秋葉一男著)
享保七年(一七二二)六月、将軍吉宗は江戸町奉行大岡忠相(ただすけ)に地方御用掛の兼務を命じた。江戸町奉行が関東農村を支配することは異例のことで、江戸時代を通じて最初であり、同時に最後でもあった。おそらく将軍吉宗および老中は、それだけ忠相の才腕に期待していたのであろう。忠相の関東農村支配の中で最もよく知られているのが、武蔵野新田の開発である。
忠相が地方御用掛に任じられた翌月、幕府は江戸日本橋に高札を立てた。それには「諸國に新田となるべき場所があれば、その所の代官・領主・百姓とよく相談し納得させた上で、開発の方法をくわしく絵図・書付けに記し、五畿内は京都町奉行、西國・中國筋は大坂町奉行、北國筋・関八州は江戸町奉行へ願い出ること」とあった。この布告は明らかに江戸・大坂・京都を主とする都市の大商人が、資本を投じて新田を開発することに期待したものといわれている
惣て自今新田畑可有開発場所ハ、吟味次第障り無之におゐてハ、開発可被仰付候、夫に付、右地所私領村附之地先ニて、只今迠開発可致筋ニても、此度新田紳吟味ニ付、いまた開発不仕有之候場所之分ハ、山野又は芝地等或ハ海辺之出洲内川之類、新田畑ニ可成処ハ、公儀より開発可被仰付候、乍然私領一円之内ニ可開新田ハ、公儀より御構無之候、為心得此段相通し候
(御蝕書寛保集成二十四 享保七年九月)
原文
解読文
享保七寅年七月日本橋享保七寅年七月日本橋
御高札の写し
覚
諸國御料所又ハ私領と入組候場所ニ而も新田可開場所出
有之ハ其所之御代官地頭并百姓申談何も得心
之上新田取立候仕形委細絵図書付に志るし
五畿内者京都町奉行所西國中國筋ハ大坂町
奉行所北國関八州者江戸町奉行所江可願出候
願人或ハ百姓を(だ)まし或金元之者江巧を以て
金銀ホをむさほり仕候儀を専一ニ存じ、偽を以申出ル者
あらハ吟味之上相とがむるにて可有之候事
一惣而御代官申付候筋之儀ニ付納方之益にも不
相成下之却而難儀いたし候事茂有之ハ可申出
併申立へきいはれも無之自分勝手ニよろしき
事願出においては取立無之候事
右之通可相心得者也
寅七月 奉行
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